個人的に好きな西行の歌十選
西行(俗名:佐藤義清、1118-1190)は平安時代後期に活躍した歌僧だ。当初は御所の警護を務める北面の武士として将来を嘱望されていたが、23歳にして突如出家を果たす(原因は友人の急死・失恋・往時の政情に対する不安など諸説あるが、いずれも決定打には乏しい)。以降は高野山を主な拠点としながらも、時には二度の奥州旅行や四国旅行に代表される諸国歴訪の旅に身を置き、その過程で自然の情景や抒情性に富む数々の歌を詠んだ。旧暦1190年2月16日に河内の弘川寺で最期を迎えたことは、後に示す歌も相まって友人たちの感慨をひとしお呼び起こしたとされる(蛇足ではあるが自分のIDもこの逸話に基いている)。
ここではそんな西行が詠んだ二千を超える歌の中から、個人的に好きなものを十首精選した上でそれぞれの詠歌事情と共に紹介していきたい。なお訳については『新潮日本古典集成 山家集』に収められている歌は当該書から、それ以外の歌は検索で見繕った中から引用し一部表記を改めている。
- 桜
願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃
(訳:どうか、春の、桜の花の咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅なさった二月十五日頃に。)
西行といえばこの歌と目されるぐらいには代表的な一首だろう(ただし一部で誤解されているような辞世の句ではなく、実際には60歳前後の作とされる)。先に述べた通り彼はこの歌と一日違いで亡くなったため、結果的にその死は際立って印象的・伝説的なものへと仕立て上げられた。加えて桜・月・宗教性と西行の歌に特徴的な要素を概ね押さえている点も、少なからず自分の評価を高めている一因だ。
身をわけて 見ぬこずゑなく 尽くさばや よろずの山の 花の盛りを
(訳:自分の身を可能な限り分けて、あらゆる山の桜の花盛りを、見落とす梢のないよう全て見尽くしたいものだなあ。)
この歌は決して名歌とは言えないが、個人的にはかなり好きな一首だ。想像してみると幾分シュールな情景にも思えるが、そのシュールさをあの時代に衒いもなく表現している辺りに、西行の豊かな想像力と桜への熱意が見て取れるのではあるまいか。
- 恋
歎けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
(訳:歎けといって月は物思いに耽らせるのだろうか、そうではなく恋ゆえの涙なのに……。月のせいであるかのように恨みがましく流れる涙だなあ。)
小倉百人一首に選出された歌であり、こちらも西行の代表歌の一つとされる。かこち顔は「託ち顔」と表記されるように、何かに当て付けて恨み節を漏らす様を指す。前述した彼の出家理由には失恋が含まれているが、鳥羽上皇の皇后だった待賢門院もその相手候補の一人だ。西行が28歳の時に崩御した彼女は、その面影を月に映そうとする彼の心にいつまでも留まり続け、折に触れては激情の発露を促したに違いない。この歌をその情景を切り取ったものだと解釈してみるのも、それはそれで面白いだろう。
はるかなる 岩のはざまに ひとりゐて 人めおもはで 物思はばや
(訳:人里を遥かに離れた岩の狭間に独りいて、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。)
この歌は収録されている歌集では恋歌に分類されているが、個人的にはもっと素朴な観点から捉えたい一首だ。都市部に住んでいる方は特に共感してもらえるかもしれないが、一人暮らしでもなければずっと独りで思索に耽っていられる場所などほとんどないのが実情である。今よりも人がずっと少なかった当時に、西行はいかばかりの苦悩を抱えていたのだろうか。
- 宗教観
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
(訳:身を捨てて仏道に励む人は本当に我が身を捨てたのだろうか、むしろ捨てずにいる人こそ身を捨てたことになるのだ。)
この歌の本来の意味は、出家した人は修行の末に救いや悟りを得る一方で、俗世に執着する人こそ本当の自分を捨てているのだとでも解釈できよう。この考え方は現代においては転職やフリーランスへの道と、現状維持に徹するサラリーマン生活との対比に好んで流用されている。とはいえこの歌を名歌たらしめているのはもっぱら西行の俊才とその波乱に満ちた生涯であり、凡人が真似するには極めて難しいことは是非とも肝に銘じておかねばなるまい。
野に立てる 枝なき木にも おとりけり 後の世知らぬ 人の心は
(訳:後世安楽も思わず、仏の道も思わない人の心は、野に立つ枝のない木にも劣ることだよ。)
枝のない木というだけで何とも薄ら寒い情景を連想させるこの歌だが、西行は来世を案じない人間はそれ以下だと断言しているのだ。ここに彼の並々ならぬ選民思想が窺い知れるが、それを助長した時代背景をも念頭に味わうべき一首であろう。
- 自然観
何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
(訳:ここにどのような神がいらっしゃるのかは存じ上げないが、身に沁みるようなありがたさが込み上げてきて、思わず涙が零れてしまった。)
日本人の宗教観を表す歌として、よく引き合いに出されることが多い一首だ。この歌は西行が伊勢神宮を参拝した折に詠んだものとされるが、一部の人には彼が仏僧だったために純粋に拝む対象(=天照大御神)を知らなかったとも解釈されている。しかし他の神社にも複数足を運んだ記録のある西行が、その総本山である伊勢神宮の祭神を知らなかったとはにわかには信じ難い。彼の自然に対する敬意を踏まえれば、実際にはいかなる神的存在がそこにいるのかは分からないにせよ、その大いなる力を信徒ですらない西行が心身で感じ取ったのだと見なして然るべきだろう。
ここをまた われ住み憂くて 浮かれなば 松はひとりに ならんとすらん
(訳:この地をまた自分が住み憂く思って、心一所に留まらず旅に出たならば、松は独りになってしまうのだろうなあ。)
西行は特に鶯の歌において、置き去りにされる悲しみを繰り返し詠んでいる。恐らくは桜の落花や失恋が影響を与えていると推測されるが、とにかく彼がその辛さを痛感していたのはほぼ確実だろう。自分がいざ置き去りにする側に立った際に、自らと同じ悲哀を味わう松を思いやったのがこの歌だ。西行がここでこの松を、一つのしかも対等な擬人格として見ていることが、彼の自然への親しみを示す何よりの証拠である。
- 老境
年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山
(訳:年老いてから、この峠を再び越えることができると思っただろうか、いや思いもしなかった。命があったからなのだなあ。小夜の中山よ。)
1180年に源平合戦の煽りを受けて焼失した東大寺大仏殿は、重源という僧を中心に復興が進められた。西行がその勧進のため自身の遠戚かつ面識もある奥州藤原氏の元に赴く途中、古来難所とされた小夜の中山で詠んだのがこの歌だ。69歳になってもこうして険しい山道を乗り越えることができる、その事実に彼がどれほどの感動を覚えたのかは容易に推し量られよう。
風になびく 富士の煙の 空に消えて ゆくへもしらぬ わが思ひかな
(訳:風になびく富士山の煙が空に消えて行方も分からない、そのように、今後の成り行きも知れない私の思いであるなあ。)
上記のように非の打ちどころのない往生を遂げた西行だからこそ、この頃には自らの命がもう残り少ないという意識が多分にあったはずだ。ただただ心細さを掻き立てては消えてゆく煙を眺める中で、彼の心には一体何が去来していたのだろうか。
以上が自分の好きな西行の歌十選となる。この他にも三夕の和歌として有名な「心なき~」を始め彼が詠んだ秀歌は数多いが、あくまでも自身の感性に従って選び抜いたものであるからその点はご了承願いたい。ちなみに西行忌自体は「願はくは~」の歌に合わせて前日の2月15日とされているが、個人的には命日である2月16日の方を重視しているため、この記事は敢えて後者の日付で投稿させていただいた。
- 参考文献
「はるかなる~」:https://ameblo.jp/0358rainbow/entry-12291604287.html
「身を捨つる~」:https://www.ogurasansou.co.jp/site/karuta/134.html
「何事の~」:https://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage654.html
「年たけて~」:https://nbataro.blog.fc2.com/blog-entry-340.html
「風になびく~」:https://kobun.weblio.jp/content/%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%B8