【読書録】阿川弘之『井上成美』

 

井上成美 (新潮文庫)

井上成美 (新潮文庫)

 

 

概要

 旧日本海軍出身の作家・阿川弘之による、最後の海軍大将・井上成美(しげよし、以下井上氏)の伝記小説。海軍兵学校を179人中2番の成績で卒業した彼は、スイス・ドイツ・フランス・イタリアと駐在を重ねて6ヶ国語を習得し、戦艦比叡艦長・軍務局長・航空本部長・第四艦隊司令長官・海軍兵学校長・海軍次官など数々の要職に就く。大将昇進で規定上次官を辞してからも終戦工作に携わり、戦後は横須賀市長井の寒村で清貧の生活を送った。700ページを超える大著であり、序章・第一~十三章・終章と解説その他で構成されている。

 

利点

  • 文章が読みやすい

 しばしば局所的には上手く飲み込めない部分にも出くわしたが、全体の流れはスッと頭に入るという何とも不思議な文章だと感じた。やはりそこは日本を代表する作家である阿川氏の手腕が、本書の一部始終を通じて遺憾なく発揮されていると見なすべきだろう。

 

  • 包括的に理解できる

 この本では井上氏本人を巡る情勢のみならず、それに応じた世相も彼の身辺にいた人物の証言や実体験を元に解説されている。また序章における東郷元帥の神格化と国粋主義の風潮が同時期に発生したことの指摘を始め、何故日本が無謀な太平洋戦争に至ったかの手引書としても一定の役割を果たしていると考えられよう。

 

  • 井上氏の知性が光る

 彼が対米戦争の回避を目的に提出した「新軍備計画論」は、実際の戦争経過と概ね一致する妙に予言めいた内容となっていた。更に海軍兵学校長時代には敗戦を見越して英語教育の継続を断行し、後に当時の生徒から大いに感謝された。このように井上氏の優れた先見性を象徴するエピソードがいくつか示される一方で、前述の6ヶ国語をマスターした点や軍楽隊の演奏をパートごとに評価した逸話を踏まえれば、彼の耳が非常に良かったことも容易に窺い知れる。

 

欠点

  • 視点が偏っている(可能性がある)

 著者の阿川氏は二・二六事件で陸軍に心底嫌気が差し、海軍入隊の際も「はい、陸軍が嫌いだからであります」と答えたぐらいには筋金入りの陸軍嫌い及び海軍びいきだ。従って本書は基本的に海軍善玉論を前提に話が進められているため、往時の正確な状況を知りたい場合は他の史料に当たる必要があるだろう。とはいえ参考文献は私稿を含め丸々6ページを占めており、少なくとも井上氏とその周辺事情については十分信頼に値すると思われる。

 

  • 話があちこちに飛ぶ

 これは上掲の「包括的に理解できる」ことの裏返しであり、この本では頻繁に登場人物の簡単な経歴紹介や実体験にテーマが脱線する。そしてその人数もこれまた多く、慣れないうちは一種の群像劇風な展開に戸惑う恐れもそれなりにあるだろう(実際自分は初読時にそうなった)。加えて戦後の井上氏の描写が戦前・戦中の合間に挟まれているため、時間軸の前後が目に付きやすいのも玉に瑕だ。

 

  • 井上氏の頑固さも際立つ

 彼の功績は先に述べた知性と、いかなる逆境でも直言直行を貫いたその堅固な意志の賜物だが、反面これが人間関係において不利に働いてきた点も決して否めない。殊に井上氏はルールとマナーに格別厳しかったことで有名であり、彼を説得する理由を拵えるのに苦労している作中人物の姿が散見される。個人的には井上氏は今で言う「アスペルガー症候群」だったのではないかと推察しているが、詳細は近日中に別の記事で取り上げる予定だ。

 

総評

 ★★★★★★★★★☆ 9/10

 史料としては最低限注意を要するものの、本書が出色の伝記小説であることはまず間違いないだろう。その高潔さから自分は思わず彼を手放しで称賛したくなるのだが、冒頭で「人間を神様にしてはいけません。神様は批判出来ませんからね」と本人直々に釘を刺されている以上、そうしないようにくれぐれも気を付けておきたい。